コラム

コラム「ともだちの作り方」

ずっと分からなくなってたんだよね。ともだちの作り方。

学生だった頃も、心をゆるせるような友だちをなかなか作れなかった。

交友関係は決して狭かったわけじゃないんだ。

むしろ今よりたくさんの人とコミュニケーションとってたかも。

でも浅く広くそういう関係性はあっても、心を打ち明けられるともだちはいなかった。

うん、本当のところは「いなかった」んじゃなくて、自分が心を打ち明けることを拒んでいたんだと思う。

 

今から考えたら、ものすごく小さな自分のプライドを守ろうと必死だったんだよね。弱い部分を見せることで、見下げられないか不安だったし、ともだちと対等な関係を作るってことが苦手で、どっかで少しでも優位に立ちたかったんだ。

 

自分を作ってた。

 

何年か前に、学生時代の同窓会に出席するっていう(自分にとってはなかなかない)機会があったんだけど、その時に、容姿も変化してるってのもあるけど、級友の記憶の中にいる昔の自分と、今の自分とが全く違っていて、まるで異邦人な気分を味わうっていうことがあったんだ。

 

それくらい、自分を作ってた。

 

そんな感じだった自分は、ロックスターや文学の中に自分の願望を投影して、そこにこもって心にカギをかけてた。最初はさ、それでもよかったんだ。そういう自分を悲しむことで充足する心理状態ってあるでしょ?ニヒリズムやヒロイズムに格好良さを感じていたのかもしれない。冷めていることがかっこ良いみたいなね。

 

でもね、そんな風に生きてたら、気がついたら実際にリアルで出会って行く人たちに対して、心のカギを開くことができなくなってたんだ。

正直、気がついた時にはもうちょっと手遅れだったっていうか、心のカギが錆びついて固まってしまって、ドアを開けたくても開けられない状態だった。

 

そういう状態になって、作った自分でがんじがらめになって、大きな挫折を経験した。長くなるから書かないけど、一回積み上げたものを全部失う経験をしたんだ。

 

でも、そこではじめて振り返って過ちを理解できたんだ。挫折ってリセット機能(?)があってね、それまでの自分や、自分のやり方が崩れてゼロに戻るから、もう自分からは脱げなくなってた着ぐるみも、そこで脱ぐことができたんだ。

 

それから偶然に絵っていう表現方法に出会って、絵描きのもとっちになって、もうできる限り自分を偽るのをやめようって思ったんだよね。偽り続けて生きて行くことに、意味を見出せなくなってた。絵を描くことって、ちょっとセラピーみたいな所があるから、絵筆を通して自分と向き合う時間の中で、あー自分ってこれが好きなんだ、とかこういう風になりたいんだ、とか、そういう自分自身の輪郭を確認していくことができたって部分はあるかもしれない。

そうやってもう一度立ち上がってきた自分っていう存在を、自分自身で抱きしめてあげようって思ったんだ。

もし誰にも理解されなくても、自分が抱きしめてあげるぞ、って覚悟した。どう思われてもいい、っていうかそれが自分なんだから仕方ないじゃないってあきらめた。

 

人生って不思議でさ、それからまるで奇跡みたいに感じるいろんな出会いがあって、心をゆるせる友だちが一人、また一人って広がって、世界が180度変わる体験をした。

 

自分自身を受け入れることが、心のドアを開くカギだった。自分が開いたら、相手も開いてくれた。

 

着ぐるみなんて、きっと本当は最初からいらなかったんだ。

構える必要なんてなくて、ただ自分自身であればよかった。そのままの姿で握手したらよかった。

 

 

この話はね、twitterで「たましいのつながりってあると思いますか?」って、質問をもらって書き出したんだけど(ちょいズレてたらごめんね)、きっと生まれてくる前から、出会うべき人とは出会うことを約束しているんだと思うよ。

何十億分の1の確率で、人と人とが出会っていくことには、ちゃんと意味がある。

ともだちも恋人も、だから大切にしてあげてね。

そして自分自身も、大切にしてあげてね。

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